2013年05月15日

『コピー』

 ねえ、世界は壊せた?

 これまでどれだけの数の人間にその問いを投げてきただろうか、もう思い出せない

 無関係な複数の人生を巻き込んで
 本人は緻密だと信じ込んでいるおそろしいくらいに雑な計画に従って
 非力なその両手を鮮血に染め上げてきた愚かしい人々

 実行の、その瞬間には、世界の支配者になったようなつもりでいたの?
 ちっぽけで取るに足りない一個人という存在が、決定的な変化を起こせるつもりでいたの?
 本当に、本気で、そんなことを考えていたの?
 今となってはどんな悲劇も惨劇も過去に起こった出来事のコピーに過ぎないと言うのに

 ねえ、世界は壊せた?

 いまのところ本当の意味でそれを成し遂げた人間はどこにもいない
 何をどれだけ壊そうとも本質的に世界は崩壊などしないし
 たとえば全ての生命体が地上から消え失せたとしても
 とらえる意味の枠をどこまでも広げていけば
 何の問題もなく世界は存続していくのだ

 だからきみがするべきは
 刃物を持つことでも
 銃をとることでも
 爆弾をつくることでもなく
 ただ、ただきみの内側で
 枠の概念を組み変えることだけだった

 一滴の血も涙も、流すべきではなかったのだ
posted by 樋川春樹 at 12:54| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『はるばる』

 なつかしい声に呼ばれた気がして
 立ち止まり振り向いてみたけれど
 やっぱりそこには誰もいない

 何もない道が延々と伸びているだけで

 そもそも自分が何処にいたのか何処から来たのか
 そこから何故歩き出してしまったのかいったい何処を目指しているのか
 はるばる歩いて来たこの道は正しいのかそして何処につながっているのか
 ちゃんと何処かにつながっているのか、そういったことも
 何ひとつわからないまま

 一人きりで立ちすくんでいる
posted by 樋川春樹 at 12:53| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『着色』

 祈りは届かなかったのだし
 だからもう救われることすらない
 どうしようもなく問うべきは『理由』だったのに
 罰することに夢中になっている人々は
 そもそもの声を聞くことをすっかり忘れている

 偏った色彩で着色された歪んだ世界は
 彼を凶行に駆り立て取り返しのつかない結末を呼び
 それでも世界は続く
 何がどれだけ壊れようとも
 一秒ごと一瞬ごとに
 すべての破損を何ごともなかったかのように飲み込んで
posted by 樋川春樹 at 12:52| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月08日

『イケメン』

 あたしはいったい何のためにうまれたんだろう
 もとからそんなに期待していたわけじゃなかったにせよ
 それにしたってあたしに与えられた運命はひどすぎってモンだった

 誰もがうらやむイケメンではあったけれど責任感ゼロの父親は
 母親の妊娠が発覚すると同時に何処かへ姿をくらまし
 母親はどうにかあたしを産みはしたもののあっと言う間に精神崩壊
 カオだけで男を判断するような浅はかな人間だからメンタル面の弱いこと
 泣きわめくことしか満足に出来ない赤ん坊という生き物をすぐに持て余すようになった

 人間は誰も望まれてこの世に生まれてくるなんてウソもいいところ
 あたしは最初っから誰にとっても邪魔物で何の役にも立たない要らない子だった

 優しい言葉をかけられることもなく
 愛情のこもった腕に抱かれることもなく

 ほんとにいったい何のためにうまれたんだろう
 不幸で悲惨な目に遭うためだけに来たようなものじゃない
posted by 樋川春樹 at 02:34| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ろくろく』

 人間の運命は
 縦糸
 横糸
 相互に絡み合って
 長い長いタペストリーをつくる
 無作為なようでいて
 綿密に計算され尽くした模様を描く
 ひとにぎりの勝利と幸福
 それ以外は膨大な量の敗北と不幸
 歴史と呼ばれるタペストリーを

 きっと『唯一の』神様とやらが求める
 壮大で荘厳なその芸術品に
 ろくろく考えもせずに汚点をつける
 ひとの身でありながらヒトならざる存在に身を堕とし
 結末すらも予想せずに複雑な模様に手をかける

 縺れあう糸を何本引き抜こうと断ち切ろうと
 何本の糸の色を変えようと質を変えようと
 ヒトならざる存在であるとは言えかつてひとであった卑小なこの身には
 結局無限の時間を費やしたとしても
 運命が織り上げる歴史のすべてを改竄することはできない
posted by 樋川春樹 at 02:34| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『砂糖』

 幸福になりたかったんだ。

 つぶやくように言って、けれど彼はすぐに激しく頭を振って自らの言葉を打ち消す。

 そうじゃない、ただ不幸なままでいたくなかっただけなんだ。
 ささやかな願いだろう。
 ちっぽけな望みだろう。
 この世界はそれすらも叶えてくれないと言うのか?

 後悔と絶望に翳る瞳で、自分の気持ちを小さな声で吐き出して、そうして彼は、誰の返答も待たずに自身の中で完結している台詞を繋げる。

 ああ、わかっている、わかっていた、たったそれだけのことすらも、世界は叶えてはくれないのだ、と。
 最初から何もかも全部、理解していた。把握していたさ。

 それでも。
 それでもひとは、希望に向かって手を伸ばすものだろう。
 そうだろう。
 そうせずにはいられないものだろう?

 綺麗に繊細につくられた上等で高級な砂糖菓子に手を出したわけじゃない。
 ありふれた普通のパン、どこにでもある、たやすく触れられるそれが欲しかっただけ。

 それすらも。
 それすらも、過ぎた望みだと言うのだろうか。
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2013年05月01日

『ファンデーション』

 女性である、というのは大変なことだ。
 特に、美しい女性であろうと思うのなら、一年365日一日も気を緩めることなくたくさんの努力を重ね続けなければならない。
 季節ごとに目まぐるしく流行が移り変わるファッションの情報を誰よりも早く手に入れるためにアンテナを研ぎ澄まし、その洋服なりアクセサリーなりを身に着けたときにそれが映えるように体型の維持にも腐心しなければならない。
 ただ痩せていればいいというものではない、あくまで他人の目から見たときも無理のないように。ダイエットに必死になり過ぎていると思われてはいけないから、健康的で快活な雰囲気は損なわないように、カロリーと栄養のバランスを考え抜いた食事をとり、運動する時間もなんとかつくり出す。
 食事はもちろん自炊だ。経済的だし、料理上手な女性はとにかくポイントが高いものだから。出来合いのものを買ったりはしないし、脂っこいものばかり並ぶ外食の料理を食べたりもしない。ただし、付き合いのときは相手に合わせて何でも食べる。ジャンクフードの店に連れて行かれても嫌なカオをしたりはしない。
 朝は家を出る三時間前には起床して、メイクにもきっちりと時間をかける。化粧水もクリームも、ファンデーションも口紅も、自分の肌質と今季の流行りとを天秤にかけて最善のポイントを入念に探り出して選び抜いたものばかり。当然ヘアスタイルも華美になり過ぎないようにアレンジしつつもそのときどきの最先端をさりげなく取り入れている。
 もちろん、仕事にも手を抜かず。一日だってズル休みは出来ない。ファッションやコスメにかけるお金は自分で稼ぎ出さなくてはならないし、職場における評判だって気にかかる。見た目が美しくあればそれでいいわけではない、内面も人に好かれるものでなければ美しい女性であるとは言えないのだから。
 誰よりも早く出勤して皆のデスクを拭いたりオフィスの花を活けかえるぐらいは当たり前、お茶の時間には手作りのスイーツなど振る舞って。
 けれど男性や上司にだけ媚を売っていると思われないように、同性の同僚・先輩・後輩達との会話にもそつなく花を咲かせる。皆との会話を盛り上げるためには、話題になっている映画やドラマのチェックも欠かせない。ネット上のニュースにもそれとなく目を配る。それでいて自らの知識をひけらかすことはなく、会話ではもっぱら聞き役に回ることが多い。誰しも自分の話を熱心に聞いてくれる人物に対しては評価が甘くなるものだから。

 好きな人がいるわけじゃない。ここまで頑張っているのだからさすがに言い寄る男は多いけれど、職場で少し見ているだけでもだらしなく自分に甘く生きているとわかる彼らには何の魅力も感じない。
 誰かに好かれたいわけじゃない。ただ誰にも嫌われたくない、悪く思われたくない。だから満点を狙い続ける。世の中の価値基準に自分を合わせて。ものごころついたときから既にそうしていた。
 自分自身が好きなわけじゃない。本当は自分のことなんか大嫌いで、嫌いで嫌いでしょうがないぐらいで、だから徹底的に飾り立てないと自分は誰にも受け容れられないと思っているのだ。
 何の価値も見い出せない自分を、何の思い入れもない他人にとって魅力的に見せるために、毎日毎日途方も無い時間と労力を費やして、ひたすら磨き抜き飾りつけているのだ。

 女性である、というのは大変なことだ。
 特に、美しい女性であろうと思うのなら。
 けれどこのからっぽの美しさは、何一つ実らせないし喜びを感じさせることもない虚ろな美しさは、私の人生において何の役に立つと言うのだろう?
posted by 樋川春樹 at 03:16| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『さっと』

 キーをいくつか叩くぐらいのちょっとした手間で自分自身のこれまでのあらゆる記録がこの世界から綺麗さっぱり拭い取られてまっさらな人生が手に入るのだと聞かされてから、それでも『マスター』はずいぶんと長いことそのことについて一人で悩んでいたようだった。ボク達から見れば『枠』の中の出来事は彼女を容赦なく痛め続けてばかりいたように思えるけれど、『マスター』自身にとってはきっとその中に大切な思い出も含まれていたのだろうと推察出来たから、誰も助言も口出しもしないで彼女が一人で決断を下すのを待っていた。人間にとってはそこがどんな場所であれどこかにもう二度と戻れないのだと知らされることは多分心理的に重圧を感じずにはいられない出来事なのだろう。どんなにひどい場所でも、自分の人生からそれが永遠に喪われてしまうと思うとき、人間は惜しいと思うのだ。純粋に、可能性が永遠に潰れることに対して。『マスター』は半年余りも考え抜いた挙句最終的には全てのデータを始末して誰でもない誰かになることに同意してくれた。半年間じっと待ち続けその間何の行動もとれずにいたボク達に対して、彼女は長い間待たせてしまってごめんなさい、さっと決めてさっと消してもらえれば良かったんだけど、自分が本当にそういう決断力のある人間だったら良かったと思うんだけど、と困っているような泣いているような笑顔を見せた。
posted by 樋川春樹 at 03:15| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『細工』

 ひとりの人間が確かに存在した証となるものは何だろう?

 遠い遠い、遠い昔から人間はこの世界に生きていて、まさに数え切れないほどの人数が生まれては死んでいった。
 その中から幸運な−真に偉大であったり、または途方もなく馬鹿げていたりする−ごくごくひとにぎりの人物が歴史に名を残すが───それすら、ほんのいっときだけのこと。
 最終的には誰も彼もひとり残らずが時間の流れに押し流されてあらゆるものから忘却されて、この世に残された所持品や、輝かしかったり不名誉だったりする功績の一切合財すらがこの世界から消え去って、一個人が生きていた証拠など結局どこにも残らない。
 つまりは最初から存在しなかったのと同じことになる。

 高度に情報化され個人の情報が大量に収集され蓄積されるようになった今でも、基本的にそのことに変化はない。
 個人情報なんてつまりはコンピュータの中に保存されたデータに過ぎないのだから、ちょっと細工をしてやれば改竄することも消去することも簡単なことだ。
 記録されているものを書き換えてまったくの別人になることも───あるいは全てを消し去ってその人物を社会的に存在しなかったことにすることも、可能。
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2013年04月24日

『ガイド』

 道路の一角に、うず高く花束や果物や、お菓子が積み上げられている場所がある
 祈りの言葉を繰り返した手書きのメッセージ
 かつてこの場所でたいへんな悲劇が起きて、大勢の人が犠牲になったのだと、
 その事件が起きたときにはまだ学生だったと思われる若いガイドが解説を始める

 人々の悲しみは今も癒えず、怒りも憤りも薄れることはなく、
 その場所には何年も経った今でも新しい花が手向けられる

 他者を傷つけ殺めた時点で彼らの正義はいかなる意味においても失われた
 『枠』の内側にいる限りはそのやり方は絶対に受け容れられない
 外側から世界を巻き戻し続ける自分よりも彼らの方が真剣に世界のことを考えていたとしても
 牢につながれ糾弾されているのは彼らで
 安穏な空の下で平和に観光旅行などしているのは自分の方で
posted by 樋川春樹 at 02:03| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『たわわに』

 たとえば。

 たわわに実った果実は生命感に溢れ、生きるよろこびのようなものすら見る者に感じさせるけれど。
 果実が実るのは何も生を肯定するためではなく、鳥や獣をひきつけて実の内部の種子を運搬させるためだ。
 新しい生のために、一度死ぬことを期待して、果実は実る。
 ずっしりと重い実で枝をしならせて、複数の死と引き換えにもっとたくさんの生命をばら撒くために、空に向かって果実を差し出すのだ。
 実をつける植物だけではない、他の生き物達もみんな、そんな風にして生命をつないできた。個体の死と引き換えに、種全体を生き長らえさせてきた。

 それで何かが、正当化されるわけではないけれど。

 不幸になるのがわかっているのに幸福になりたがる、
 底無し沼の真ん中でもがく人間達が、
 波紋のように不幸をひろげてゆく。
 不幸であるからこそ人間達はいっそう足掻き、
 より大きな波に周囲の全てを巻き込んでゆく。

 幸福な状態が正しいのだと、人間はそう思いたがっているだけなのかもしれない。
 いまの自分達の状態は間違いで、本当はもっと正しい状態があって。
 努力すれば、努力し続ければ、正しいところへ行き着けるのだと。
 そう考えて、何も掴めない弱いてのひらをあてもなく高みへ、伸ばすのかもしれない。
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『後先』

 ───ああ、『枠』の中では。
 今日も明日も非道いことばかりが起きる。

 人間は何故、都合の良い誤解をするのだろう。
 どうしようもなく非力で絶望的に脆弱なその手で、
 世界の何かを変えられるなんて思ったりするんだろう。
 弱々しくてちっぽけで、限りある時間を生きることしか出来ない、
 無力で無価値で身の程知らずな人間達は。

 何度同じあやまちを繰り返してもいっこうに学ぶ気配すらなく、
 いまこの瞬間も世界のどこかで負の感情を連鎖させている。

 生きとし生けるモノ達が憎み合い殺し合う世界であるのなら、
 『虚ろ』に喰われてしまった方がまだしも幸福なのかもしれない。
 そもそもが時間の果てにおいては『竜』に喰われるさだめのものだ。
 その『枠』の中で流される、血にも涙にも、きっと意味など何もない。

 だから後先考えずに世界の全部を敵に回した彼らのしたことも、
 彼らが正義とみなす惨劇の犠牲となった人々の痛みも苦しみも悲しみも何もかもが、
 どうしようもなく、どうしようもなく無駄だったのだ。

 不可視の『引き金』を強く握りしめて、それなのに可能性を探る。
 何千回、何万回ものリトライの末に、彼らがしあわせになる未来もそれはあるだろうが、
 それとまったく同じ確率で、彼らがそうしたかったようにほんとうに世界を変えるという選択肢も、
 厳然として存在するのに違いない。
 大量の血が流れて、多数の人命が失われて、それでも『枠』の外側から見る限りでは、
 そのどちらの結末を世界が望んでいるのか、容易には判断がつかないのだ。
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2013年04月16日

『キッチン』

 キッチン、という単語から連想するのは、父親の背中、そして父親の死、だ。

 ひょろりと細い身体の背中を少し丸めるようにして、よれよれになったエプロンを着けて、私のために食事をつくってくれている、父親の姿が思い出される。
 と同時に、冷えた床に身を投げ出すようにして、動かなくなっていた彼の姿も脳裏に浮かんでくる。

 私の父親は気が弱くてお人好しで、周囲から面倒な仕事を押しつけられてばかりいた。頼まれると断れなくて、困ってる人を見ると放っておけなくて。自分がしなくても良いような仕事ばかりを大量に抱え込んで、残業続きの毎日だった。
 子どもが生まれたばかりだというのに家で我が子とふれあう時間もとれず、生まれたばかりの子どもと二人きりで家に閉じこもっているしかない妻をフォローする時間もとれず。

 やがて精神的に追い詰められた母親は、他人にいいように使われてばかりの父親と泣きわめいてばかりで手のかかる赤ん坊とに愛想を尽かして、姿を消してしまった。
 彼女が何を考えてそうしたのか、その後どこへ行ってしまったのか、未だに誰にもわからずにいる。

 妻に逃げられた夫は、たった一人で子どもを育てなければならなくなった。
 育児の時間を捻出するため職を替え、収入減を補うために住居を替えた。
 父親は本当に一生懸命、それこそ全身全霊を賭けて、私のことを育ててくれた。
 自分のことは全部後回しにして、唯一の家族である私が不自由な想いをしないように、いつだって気遣ってくれた。

 毎日あたたかい食事を用意してくれた。
 彩り豊かで凝ったお弁当も持たせてくれた。
 学校の勉強もみてくれたし、長期休暇のたびに遊びにも連れ出してくれた。
 絵に描いたような理想の父親だった。
 私にはそれがずいぶん自慢だったものだ。

 けれど父親は改めて言うまでもなく絵に描いたものではなく生身の存在だったから。
 自らをまるで省みない過剰な優しさの果てに、私が高校最後の授業を終えて帰って来たその日、キッチンの床に倒れて、つめたくなっていた。

 テーブルの上に置かれたスーパーの袋から、たまねぎとじゃがいもがこぼれ落ちて、父親の顔のすぐそばに転がっていた。
 その夜の献立は、私の大好きなカレーライスにするつもりだったようだ。

 母親が家を出たのは、自分の情けなさが原因だ。
 一度も言葉にはしなかったけれど、父さんはきっとずっとそう考えていたのだと思う。
 自分の不甲斐なさのせいで母親を失ったこの子に、だからもう決してつらい想いをさせてはいけない。
 父さんのことだからずっとずっとそう思っていたのだろう。

 それは間違っている、と言いたかったけれど。
 彼がそう思っていたからこそ、私はしあわせに育てられたのだし。
 それを正しい、と認めるとするならば。
 彼の人生はあまりにも、他人のためのもの過ぎて。
posted by 樋川春樹 at 00:13| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『もっとも』

 『マスター』を行動不能にすれば、『狩人』達は動きを止める。
 『木偶』はそのことを、大昔から知っている。

 『木偶』は自分達の仲間がどれほど壊されようとも意に介さないし、極端な話自分達の目的−『枠』の内部を虚ろで喰い荒らし世界をひとつまるごと駄目にする行為−を何度妨害されようとも、そのことを特別問題視したりもしない。
 自分達が目的を果たせなくとも良い、とまでは思っていないようだけれど。
 『木偶』はどこにでも出現するし、どこででも増殖する。ある『枠』で『狩人』やそれに準ずる存在に殲滅させられたなら、またどこか他の『枠』において飽かず倦まず同じことをするだけだ。

 それなのに『木偶』は稀に自分達が持っている浅い知恵を駆使して、『狩人』の動きを根本から停止させるべく『マスター』を狙うような真似を仕掛けてくる。
 その作戦は『木偶』達の中から自然発生的に生まれるものなのか、あるいはもしかして連中の中にも司令官的な役割を担うものがいて、そいつが気まぐれに考え出すものなのか、こちらとしては知る術もない。

 いずれにしても所詮は浅すぎる知恵だ。その作戦は大昔に一度失敗しているし───今回だって、成功するわけがない。

 一日のうちでも短い間しかない、『マスター』がひとりきりの時間を襲撃されようとも。

 ───『絵描き』は世界を直接描き変える絵筆をとる。

 ボク達のうちの誰かが必ず、ずっと彼女のそばにいるのは、そんな風にして何時如何なるときでも『マスター』を守る必要があるから、『じゃない』。

 ───選んだ色は『赤』、あざやかに力強い、炎の色。

 ただボク達が『マスター』のことをどうしようもなく慕っていて、片時もあのひとのそばを離れたくないと思っているから、本当はただそれだけのこと。

 ───ただの一閃、空間を薙いだ紅は、次の瞬間爆発的な火力となって襲撃者を吹き飛ばす。

 もっとも、心優しい『マスター』は本当に心底争いごとが苦手で嫌いで、相手が『木偶』とは言え自分の能力の攻撃的な側面を発揮するような事態になんて、ならないに越したことはないと考えているのだけれど。

 ───あとには何も残らない。残骸はおろか、灰の一粒、わずかな影すらも、『赤』は焼き滅ぼしてしまった。
posted by 樋川春樹 at 00:12| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『靴下』

 近頃は「なるべく人目に立たないように」どころか「おマエのセンスは独創的過ぎるからもう自分の判断でコーディネートするな」なんて言われるようになった。
 ヒトのファッションセンスをどうこう言う前に自分がもうちょっと流行りのカッコをするように気をつけてみたらいいのに、そもそも「誰にも目撃されない」ことを前提に行動してるときにはどんな服を着ていたっておいらのジユウってヤツじゃないの?
 奇抜な服装をしている程度で目立って見つかりやすくなるような中途半端な隠密行動はしてないつもり。動きやすければいいと思う。どうせならテンション上がるようなファッションの方がいいじゃないか。
 なんて主張、してみたところで聞き入れてはもらえない。ファッション雑誌にあふれてるような、街のどこででも見かけるような服を着てれば、うるさくお説教されることはないんだけど、それって全然つまんないよね。
 だから最近は、こっそり靴下だけ左右柄が違うのを履いてみたり、スニーカーの靴紐を左右色違いにしてみたりするようになった。
 ヘアスタイルやアクセサリーにまでばっちり気合いを入れてても、足もとがお留守になってる奴ってまだまだ結構多い。それってファッションに興味ないような連中はなおさら靴下とか靴とかなんて見ないってコトだもんね。
 おかげでちょっとしたお洒落を楽しめるようになった。もしもこれがバレたら、不必要なお洒落になんか意地になって取り組むのは理解出来ないとか言われちゃうのかな。
 人間になりたいわけじゃないのに、人間と同じようなことをしたいと思ってしまうのは何故なんだろう。人間のやり方を真似して人間の考え方をなぞる。絶対に同じものにはなれないし、なりたくもないのに、何の役にも立たないもろもろを追いかけているときが、楽しいと感じるんだ。
posted by 樋川春樹 at 00:12| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月10日

『フェニックス』

 違う道を歩いていても
 見上げる空はひとつだと

 信じていたから

 不幸になったのだ

 交わらない道をずっと歩いていたのに
 それでも同じ空の下にいると思っていた
 何故そんな風に思っていたのだろう?
 ただ、認めたくなかっただけだ

 違う空の下でたったひとり
 永遠に孤独でいなければならない自分自身を
 認めたくなかった、ただそれだけのために───

 どうしてもわかりあえないものがある
 想像や推測で補えないものがある
 たとえこの世にある全ての書物に目を通し
 あらゆる物事を記憶し分析出来るようになったとしても
 絶対に、絶対に届かないもの

 見上げる空も別のものだと
 割り切れていたなら楽になれただろうか
 自分に備わったもの、何ひとつとして
 周囲と同じではないのだと、本当に思い知れていたなら
 無様にしがみついて
 迷惑をかけずに済んだのだろうか

 いまさら、どれだけ考えを巡らせても、仕方のないことだ

 炎が建物全体に回るまでの時間は
 予想よりも少しだけ短かった
 願わくばこの炎が全てを
 正しかったことも間違っていたことも、
 何もかも綺麗に焼き尽くしてくれますように

 自らの死期を悟り、炎の中に身を投げる不死鳥のように
 幾度もの死を経て何度でもよみがえるフェニックスのように

 人間はそんな風にはなれないとわかっているけれど
 それでも

 肺を焼く熱の中へと

 ゆっくりと進み出る
posted by 樋川春樹 at 23:47| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『どっちみち』

 良い人間であろうとしていた

 誰に対しても親切でいつも笑顔だったわけじゃないけれど

 少なくとも悪い人間になることだけは避けたいと

 まわりの人達を傷つけないように

 弱い人達に優しく出来るように

 みずからの良心に恥じないように

 一生懸命自分のふるまいを制御してきたつもりだった

 きっとそうやっていっときの油断もなく
 コントロールし続けなければ良い人間たり得ない自分自身が

 最初からどうしようもなく答えを示していた

 自分のつくり出した規律
 わかりやすいそのルールにただ盲目的に沿っていただけ
 何故、何のためにそれをするのか
 本当のところは結局、わかっていなかった

 傷つけたくなかったけれど
 同じくらい、傷つきたくもなかった

 身を守りたかっただけで
 その一心で

 どっちみちこんな結末に辿り着いてしまうのだと知っていれば
 あんなに苦しんでいなくて済んだのに

 自分をおさえつけて、否定し続けて
 陰鬱な日々を送る必要もなかったのに
posted by 樋川春樹 at 23:46| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『消毒』

 頭の良い子だとほめられて育った

 ききわけなく泣きわめくこともなく
 年下の子をいじめたりもせず
 友達とケンカをしたりもせず

 実に手のかからない子だった

 どのように振る舞えばおとなが喜ぶか知っていただけだ

 感情でぶつかることのない人生だった

 幾通りもの展開を周到に想定した理論は感情の代用となり得る
 先日読んだ小説にそういう殺人鬼の話が載っていたよ
 他人に共感することが理解出来ない男の話

 まるで自分のことのようだった

 誰かが怪我をしたとき
 真っ先に救急箱から消毒液を取り出すような人間だった
 清潔な包帯とガーゼ、ばんそうこう
 でも多分、最初に触れるべきはそれらではなく
 傷を負って不安な思いをしている誰かの背中ではなかったかと───
posted by 樋川春樹 at 23:46| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月03日

『クリームソーダ』

 あんときお店で飲んだみたいなのうまくできない、泡だらけになって全部こぼれちゃう!
 うわナニこの緑色の液体? テーブルの上べったべたじゃないか! また要らないコトばっかりする!
 お店で飲んだのって、どれのこと? その緑色のは、メロンソーダ?
 これにアイスクリームとさくらんぼがのっかってたヤツ。
 ああ、クリームソーダか。思い出した、あのときも不用意にかき混ぜてテーブルの上めちゃくちゃにしてたよね、おマエ。
 クリームソーダ、気に入ったの? また飲みに行く?
 ううん、飲みに行くんじゃなくて、ジブンでつくれるようになりたい。ジュースの上にアイスのっけるだけだから、絶対カンタンだと思ったのに……。
 まったく、どんなときでもあさはかな奴だな、おマエは。テーブルの上ちゃんと拭きなよ。あとその泡だらけの物質ももったいないからちゃんと飲み干せよ。
 こつがいるんだよ、丁寧にやらなきゃダメだよ。カンタンだと思って無造作にアイスをのっけちゃったんでしょう? そっとやらないと。
 そうなの? どうやるの? できるの?
 コイツの相手なんてしてやる必要ないのに───ああっ、テーブル拭くのはそいつにやらせようよ! キミはいつでも優しすぎるんだから!
 アイスを入れる前に、炭酸がおさまるのを待つんだよ。それから、グラスのふちに沿わせる感じで静かにアイスを置くようにするの。焦らないでゆっくりやるようにすれば、きっとうまくいくよ。
 ゆっくり、テイネイに、かあ。わかった、もっかい頑張ってみる! うまく出来たら飲んでくれる? あ、おマエには飲ませてやんないけど。
 飲みたいとか言ってないし。飲まないし。
 もー、そんなコト言わないで仲良く一緒に飲もうよ。みんな一緒の方がきっと美味しいよ。───ね?
posted by 樋川春樹 at 00:11| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『さりとて』


 どこかでなにかを間違ってしまったんじゃないか、なんて、

 平和なことをまだ考えている自分自身に嫌気が差した。

 どこかでなにかを間違った?

 つまり『少なくともそれまでは正しいルートを進んでいた』とでも?

 ゆるんだ口もとにこぼれた笑みは、ぞっとするくらい空虚なもので。

 この期に及んでまだそんなことを考えているから───考えようとしているから。
 駄目なのだと。



 不幸ではない、さりとて、幸福でもない。

 生まれたときから延々と維持され続けたその状況こそが答え。
 不幸になるほど世界から憎まれもせず。
 幸福になるほど世界から愛されもせず。

 ただただ、目に見えないもののように無視され続けていたんだ。

 はじめから、全然関係ないところにいたんだよ。

 最初から正しくもなかったし、間違ってもいなかった。



 そういった評価とはまるで無関係なところにいたんだ。
posted by 樋川春樹 at 00:11| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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