2013年04月24日

『たわわに』

 たとえば。

 たわわに実った果実は生命感に溢れ、生きるよろこびのようなものすら見る者に感じさせるけれど。
 果実が実るのは何も生を肯定するためではなく、鳥や獣をひきつけて実の内部の種子を運搬させるためだ。
 新しい生のために、一度死ぬことを期待して、果実は実る。
 ずっしりと重い実で枝をしならせて、複数の死と引き換えにもっとたくさんの生命をばら撒くために、空に向かって果実を差し出すのだ。
 実をつける植物だけではない、他の生き物達もみんな、そんな風にして生命をつないできた。個体の死と引き換えに、種全体を生き長らえさせてきた。

 それで何かが、正当化されるわけではないけれど。

 不幸になるのがわかっているのに幸福になりたがる、
 底無し沼の真ん中でもがく人間達が、
 波紋のように不幸をひろげてゆく。
 不幸であるからこそ人間達はいっそう足掻き、
 より大きな波に周囲の全てを巻き込んでゆく。

 幸福な状態が正しいのだと、人間はそう思いたがっているだけなのかもしれない。
 いまの自分達の状態は間違いで、本当はもっと正しい状態があって。
 努力すれば、努力し続ければ、正しいところへ行き着けるのだと。
 そう考えて、何も掴めない弱いてのひらをあてもなく高みへ、伸ばすのかもしれない。
posted by 樋川春樹 at 02:02| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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