2013年02月20日

『充実』

 わたしはもう十分に長いこと生きました。
 いろいろなことがありました。
 けして幸福なことばかりではなかったけれど。
 思い返す度に声をあげて泣き叫びたくなるぐらいに悲しいこと、つらいこともたくさんあったけれど。
 それでも、今こうして振り返ってみれば。
 充実した、素晴らしい人生であったと言い切れます。
 わたしの身に起こった何もかもが、今日この日のわたしをつくりあげてくれた。
 どれひとつ欠けてもわたしがわたしでなくなってしまう、全てが大切な記憶。
 だから、わたしは心の底から、何度でもこう言えるのです。
 もしも時間が巻き戻って、もう一度人生を生き直せるとしても、そっくりそのまま同じ日々を生きたいと思えるほどに、充実した……わたしにはもったいないほどの、素晴らしい人生でした。

 静かな口調で語る老女、穏やかで迷いのない微笑、深みのある声が部屋の中をゆるゆると流れてゆく。

 家族、恋人、友人のあらかたを、一人の人間が一生に一度遭遇すればそれはどうしようもない不運だと表現出来るほどの事故や災害で失い続けた彼女は、人生最後の日に、それでも優しく笑っていた。
 運命は、その生涯に渡って彼女から大事なものを奪い続けたというのに。
 それをことさら嘆いてみせることも、まして恨み言を口にすることもなく、彼女はただあらゆることを受容した笑顔で、かみさまのような笑顔で、自分の一生は素晴らしいものだったと、断言した。

 『引き金』を握った手を灰色のコートに隠して、窓の前に呆然と立ち尽くす私を、彼女はどのような存在ととらえただろうか。
 ようやく自分を連れに来た、遅刻癖のある死神と思ってくれたのか。
 あるいは、私こそが彼女を翻弄し続けた『神』であると───気づかれてしまっただろうか?
posted by 樋川春樹 at 02:03| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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