2011年07月31日

『人違い』

 夕陽が西の空へと燃え落ちてゆく

 丘の上の公園のベンチにひとり腰を下ろして
 老人は静かに日没の風景を見守る

 今日も良い一日だった
 心穏やかに、平和に過ごせた

 毎日そうしているように、
 胸の中で感謝のことばを唱える
 まだ見ぬ神へ、
 いるのかいないのかもわからぬ
 大いなる存在へ

 完全に暗くなってしまう前に
 老人は杖を手に立ち上がる
 同じくらい年老いた妻が待つ我が家は
 公園からすぐのところにある
 明日は息子夫婦がかわいい孫達を連れて遊びに来る予定だ

 ふと上げた視線の先
 公園の入り口
 誰かが立っているのに気づいて
 少しの驚きと共に老人は足を止める

 灰色のコートを片方の肩にひっかけた少女が一人
 老人に静かに視線を向けて
 そして微笑んだ

 謎めいた微笑にひかれるように
 老人はそろそろと彼女に歩み寄る
 かなり聞こえにくくなっている彼の耳が
 まだ離れたところにいる彼女の囁きを確かに、拾う

「ようやくここまで、辿り着いた。
 変えられない運命なんて、やっぱり存在しないんだ」

 その言葉の意味は、老人にはわからない
 けれど、何故だろうか、
 彼にとって彼女はひどく懐かしい存在に思えてならなかった

 たった今初めて会ったばかりのはずなのに

 まるで生まれてからずっと、そう、ずっとそばにいたような

 彼が生まれ落ちてから今日までの長い長い日々を

 一日も離れることなく共に過ごしていたような───

「……失礼。お嬢さん、どこかでお会いしたことが?」

 意識するよりも早く、問うていた
 少女は老人の瞳を、おだやかなまなざしで見返して

 そしてゆるりと首を振る

「そうですか。しかし、私は随分と昔からあなたを知っているような気がしてならない。
 いや、あなたような若い方を昔から知っていると思うのは、おかしなことなのですが」

「───きっと、人違いでしょう」

 静かな声で簡潔にそう述べて、
 少女はぺこりと頭を下げる
 そうしてコートをふわり、翻して背中を向けて
 後は老人が声をかける間もなく歩み去る
posted by 樋川春樹 at 22:04| Comment(0) | はる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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